本の橋渡し

本の感想を書くブログです。 (たまに映画、美術、音楽についても書ければ良いなと思っております。)

実戦経験を積むにつれて変貌してゆく少女たちの心理━━『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬(著)

この本について

2021年11月に初版発行された、逢坂冬馬(あいさか とうま)さんが書いた作品です。

デビュー作ながら、2021年第11回アガサ・クリスティー賞、2022年第19回本屋大賞を受賞しました。第166回直木賞候補にもなりました。

2次世界大戦中の旧ソビエトとドイツによる「独ソ戦」が舞台となっています。

モスクワ近郊の農村に暮らしていた少女セラフィマは突如として日常を奪われ、狙撃訓練学校に入る事になります。

 

残忍な事と、そうでない事の違いは?

私の印象に残ったのが、狙撃訓練学校の生徒たちが、初めて生きたものを撃つ訓練で、食肉用として飼育されていた牛たちが的として使用される場面です。

主人公セラフィマは一撃で牛を殺すことは出来ませんでしたが、その直後の二発目で仕留めます。

一方で、モスクワ射撃大会優勝者で十分に技量があるはずのシャルロッタは、動揺してなかなか牛を仕留めることが出来ません。シャルロッタは5分間の猶予をもらい校舎の方に走って行きます。それを見かねたセラフィマが声をかけに行きます。

その時シャルロッタが、あなたは優しいのになぜ、あんなに落ち着いて牛を撃てるのか、可哀想だとは思わないのか、とセラフィマに尋ねます。

それに対してセラフィマは、あたなたは肉を食べたことがないのか、と尋ねます。皆牛肉を食べ、毛皮が必要なときもあるし、鹿の食害もあるので、誰かが動物を殺さなければならない、つまり、誰かに必要とされていることをするのに残忍になる必要はないのだ、と諭します。つらい時もあるが、誰かが殺さないと生活が成り立たない、誰がいつどうやって殺したかなんて誰も気にしない、だから、私たちが殺したことにはならない、とセラフィマは言います。そして、それを聞いたシャルロッタは元気を取り戻します。

 

私はこの場面を読んで、兵士たちは殺す対象が牛ではなく、人間になったとしても、自らにこのように言い聞かせているのだろうか、と思いました。自分や家族を守るために敵を殺す。それは誰かの為に必要な事だから、人を殺してもそれは残忍なことではない、自分は異常ではない、と。

残忍な事と、そうでない事の違いは一体なんなのでしょうか?

私はベジタリアンではないので牛も豚も美味しく食べます。けれども例えば、ペットとしてミニ豚を飼っていたとして、そのミニ豚の肉を食べろと言われても、残忍な事のように感じて私は食べることはできません。しかし、他に食べるものが無く、極限状態になったとしたら、自分が生きるため、という理由で食べてしまうのでしょうか?正当な理由があれば、残忍でなくなるのでしょうか?でもそれが正当な理由だと誰が決められるのでしょうか?

「だから、〇〇だ。」というように、上手く言葉にしてまとめる事は出来ませんでしたが、この本を読んでいて、たくさんの疑問が湧いてきました。

おわりに

戦闘の描写などが圧巻で、文章からありありとその光景が浮かんできました。今まで戦争小説を読んだことがなく、独ソ戦についてもほぼ知識がない私でも、最初から最後まで夢中になって読めたので、まだ読んでいない方は一度読んでみては?